今治城を歩こう

今治城  今治城は、慶長7年(1602)6月に起工し、慶長9年(1604)9月に普請が完成しています。関ヶ原の戦いの戦功により、伊予半国20万石の大名となった藤堂高虎は、築城総奉行に渡辺勘兵衛、工事の責任者を木山六之丞に任命し、三重の堀に海水を導入した壮大な海岸平城を築いたのです。
 現在は、本丸、二ノ丸、内堀と石垣などに昔の姿が残るだけですが、昭和55年(1980)10月に天守が再建され、今治城は、市の観光と文化のシンボルとして親しまれています。

今治城のお堀

堀と海を結ぶ水路
▲堀と海を結ぶ水路
 今治城の堀は、内堀、中堀、外堀と三重の堀になっていました。現存する堀は内掘。海水を引き入れた珍しいもので、干満に応じて海水の入れ替えが行われるように工夫されています。
 鯛や河豚、黒鯛、ボラなどが泳ぎ、明治、大正期には、牡蠣の養殖も行われていたといいます。

今治城の石垣

初期の算木積
▲初期の算木積
野面積
▲野面積
 石垣が水辺に接する城郭は、高度な石垣構築技術が必要となります。
 今治城の石垣は、大小の自然石を加工せず、荒く積み上げる野面積。排水にすぐれ、頑丈です。また、水際には、地盤を補強するため「犬走り」が使われ、これは高虎が関わった城郭でよく見られるものです。
 白い石は、石垣に使うことが少ない石灰岩。これらの石は、大下島などから運ばれているようです。

高虎の特徴「犬走り」<
▲高虎の特徴「犬走り」
●日本三大海城
 香川県の高松城、大分県の中津城とともに、今治城は日本三大海城と呼ばれています。
●徳川城郭の原型
 方形を多用した今治城の縄張は、後に高虎が関わる徳川幕府の多くの城郭に使われています。
●築城時の木山音頭
 海岸部の弱い地盤を踏み固めるためにつくられた木山音頭は、今も「おんまく」などで踊られています。

今治城の伝説

●その1
 今治城の石垣づくりに雇われた石工たちは、秘密を守るために処刑が予定されていました。石工頭だった治衛門は処刑を知り、大島に逃れ、余所国(よそくに)で余生を過ごしました。大島に石工が多いのはそのためといいます。

●その2
 渡辺勘兵衛は「船一杯の石材を運んだ者には同量の米を与える」とのおふれをだしました。船頭たちは、争って石材を運び、用意していた米はすぐになくなりました。
 船頭たちに「石材はもういらないので持って帰れ」と伝えると、石材を浜辺に放置して帰っていきました。勘兵衛は、船頭たちの捨石を使って残りの石垣を完成させたと伝えられています。