瀬戸内海国立公園 小島 公益社団法人今治地方観光協会

芸予要塞誕生の歴史と時代背景

北部砲台跡(24センチ砲)

上原勇作

芸予要塞の建築を指導した工兵の父
安政3年11月9日〜昭和8年11月8日(1856〜1933年)
明治―昭和期の陸軍軍人
都城(現宮崎都城市)に生まれる。
鹿児島藩士の次男。
明治12年(1879)陸軍士官学校卒。
明治14−18年(1881−1933)フランスに留学して築城工学を学ぶ。
フランスの築城、要塞構築術の新知識を蓄えた第一人者。
34年工兵監となる。
45年4月、第二次西園寺内閣陸相に就任。
大正3年(1914)教育総監。
4年大将、参謀総長。十年元師となる。子爵。

上原勇作

明治中期の日清戦争(1894-1895年)の後、ロシアの東亜侵略の野望が着々と具体化していくことにおののいていた大日本帝国は、ロシアとの戦争は不回避と判断し、ロシアの海軍の進攻に備えて瀬戸内海に要塞建設を計画しました。陸軍の上原勇作は芸予諸島を調査、その後大久野島(広島県)と来島海峡の小島に要塞を建設します。
上原はフランスで構築を学んでおり、その調査に基づき、軍事施設配置計画が立てられ、明治32年(1899年)に建設が始まり翌年3月に完成したといわれています。
赤煉瓦と御影石を所々に用いたヨーロッパ式の建物は、「芸予要塞」と名づけられ海の守りについていましたが、東郷平八郎や秋山真之らの活躍によりロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。後に日露戦争(1904-1905年)では、旅順攻撃の時に、ここの28cmの榴弾砲が運ばれて使われたと言われています。